7時15分に一関市を出て気仙沼市へ向かう。小泉小学校と小泉中学校へ、台湾台北私立静心中小学校様からの温かい義援金を、私が代理で贈呈するのです。
迂回を重ねてようやく旧本吉町に到着。学校近くの家で支援物資のお米435kgと鍋や食器類を、一関市から道案内を買って出てくれた中本さん達4人と荷解きをしてお渡しする。とても感謝され、こんなに立派な形のモノを頂いたのは初めてですと言われ、何か嬉しくなってしまった。
10時に小泉小学校の玄関へ行くと、小学校長と中学校長のお二人が迎えに出られていて、さっそく校長室に通される。持参した台湾から送って貰った募金活動やメッセージのDVDメッセージを、これまた持参したノートパソコンで見て貰う。
そのあと児童会の代表が受け取りに来てくれ、校長先生と一緒に私が台湾台北市私立靜心中小学校様からの義援金をお渡しする役目を仰せつかって、校長先生に贈呈を受けていただく。一金、88万円もの大金です。
場所を小泉中学校に移して同じく台湾からの義援金をお渡しする。金額は36万円のこれまた高額の義援金で台湾の皆さまの思いにただただ頭が下がります。
どちらの学校も生徒さん自身は学校にいて身体被害を免れ皆無事でしたが、小学校児童の74%が住宅を失い、中学生では70%が住宅を失ってしまったのです。中には親御さんが亡くなってしまったお子さんもいたようです。命が有ったからと云ってもこの様な出来事に遭遇しショックを受け、悲惨さは他の地域とも変わらないのです。
中学校の校庭では仮設住宅の建設が急ピッチで進んでいて、学校ではまだ電話が通じていないと云われていましたが、NTTが架線を張る作業も並行して進んでいるようでした。水道は昨日からやっと通水が始まって使えるようになりましたと云っていた。
近くの民家で遭遇した際の状況をお聞きするが、一瞬の対応が生死を分けた生き地獄の有り様に驚いてしまう。被災地は見ないと判らないと云った人がいたが、被災された方には申し訳ないが、私は見たくなかった。
この状況からどうやったら立ち直れるのか。破壊された文化資産が散乱している荒野と化した生活の跡地は、本当に酷すぎて言葉を失い、ただオロオロとして涙が止めどうもなく出て来てしまいます。何とか早く生気を取り戻してほしいと願うだけになってしまいますが、一つでも役に立つ事をしなくてはと気持ちを奮い立たせて、本吉町を後にする。
帰路の高速道路は今度は悪路に加えて、超がつくほどの超強風化の運転を強いられる。こんな体験は初めてで、ハンドルが取られて揺れ動く車に気が抜けない。厭なものです。
夜になっても高速道路上は行きかう車が引っ切り無し。燃料を給油し帰宅したのは12時近くだった。
台湾静心中小学校の支援金を気仙沼市小泉小・小泉中へ
7時15分に一関市を出て気仙沼市へ向かう。小泉小学校と小泉中学校へ、台湾台北私立静心中小学校様からの温かい義援金を、私が代理で贈呈するのです。
迂回を重ねてようやく旧本吉町に到着。学校近くの家で支援物資のお米435kgと鍋や食器類を、一関市から道案内を買って出てくれた中本さん達4人と荷解きをしてお渡しする。とても感謝され、こんなに立派な形のモノを頂いたのは初めてですと言われ、何か嬉しくなってしまった。
10時に小泉小学校の玄関へ行くと、小学校長と中学校長のお二人が迎えに出られていて、さっそく校長室に通される。持参した台湾から送って貰った募金活動やメッセージのDVDメッセージを、これまた持参したノートパソコンで見て貰う。
そのあと児童会の代表が受け取りに来てくれ、校長先生と一緒に私が台湾台北市私立靜心中小学校様からの義援金をお渡しする役目を仰せつかって、校長先生に贈呈を受けていただく。一金、88万円もの大金です。
場所を小泉中学校に移して同じく台湾からの義援金をお渡しする。金額は36万円のこれまた高額の義援金で台湾の皆さまの思いにただただ頭が下がります。
どちらの学校も生徒さん自身は学校にいて身体被害を免れ皆無事でしたが、小学校児童の74%が住宅を失い、中学生では70%が住宅を失ってしまったのです。中には親御さんが亡くなってしまったお子さんもいたようです。命が有ったからと云ってもこの様な出来事に遭遇しショックを受け、悲惨さは他の地域とも変わらないのです。
中学校の校庭では仮設住宅の建設が急ピッチで進んでいて、学校ではまだ電話が通じていないと云われていましたが、NTTが架線を張る作業も並行して進んでいるようでした。水道は昨日からやっと通水が始まって使えるようになりましたと云っていた。
近くの民家で遭遇した際の状況をお聞きするが、一瞬の対応が生死を分けた生き地獄の有り様に驚いてしまう。被災地は見ないと判らないと云った人がいたが、被災された方には申し訳ないが、私は見たくなかった。
この状況からどうやったら立ち直れるのか。破壊された文化資産が散乱している荒野と化した生活の跡地は、本当に酷すぎて言葉を失い、ただオロオロとして涙が止めどうもなく出て来てしまいます。何とか早く生気を取り戻してほしいと願うだけになってしまいますが、一つでも役に立つ事をしなくてはと気持ちを奮い立たせて、本吉町を後にする。
帰路の高速道路は今度は悪路に加えて、超がつくほどの超強風化の運転を強いられる。こんな体験は初めてで、ハンドルが取られて揺れ動く車に気が抜けない。厭なものです。
夜になっても高速道路上は行きかう車が引っ切り無し。燃料を給油し帰宅したのは12時近くだった。